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東京地方裁判所 平成6年(合わ)302号 判決 1995年10月24日

主文

被告人を懲役五年に処する。

未決勾留日数中二七〇日を右刑に算入する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和六二年ころA子と知り合い、翌年二月に婚姻すると共に、A子の連れ子で当時小学校一年生のB子と養子縁組をし、その後、親子三人で暮らすようになった。ところが、被告人は、A子が被告人の酒癖の悪さなどに嫌気がさしたことを理由に再三外泊し、平成六年八月三一日には現金や預金通帳を持って家出してしまったため、母親と会えないB子をかわいそうに思い、家族の将来の生活を悲観するとともに気持ちもいら立ち、飲酒量も増えて夜もなかなか眠れない日々を過ごすようになった。

被告人は、同年九月九日ころ、家出中のA子と偶然出会い、家に帰るよう説得したが、A子がこれを拒んで逃げてしまい、その後何らの連絡もよこさなかったため、A子は被告人のもとには二度と帰って来ないと思い込むようになった。

被告人は、同月一二日、職場の同僚を誘って夕刻から被告人方で酒を飲んだが、憂さが晴れることもなく、同僚が帰った後、そのまま寝入って、翌一三日午前三時過ぎころ目を覚ました。

(罪となるべき事実)

第一  被告人は、同日午前三時三〇分ころ、東京都品川区《番地略》甲野ハイツ一〇二号室当時の被告人方東側和室六畳間において、うつぶせになって就寝中のB子(当時一三歳)をぼんやりと見やっているうちに、A子が家出してからのいら立ちと家族の将来の生活を悲観する気持ちが一気に高まって自殺しようと思うと共に、残されたB子が不憫であると考えてB子も殺してしまおうと決意し、台所から出刃包丁(刃体の長さ約一四・五センチメートル、平成六年押第一七三二号の1)を持ち出して前記六畳間に戻り、B子を仰向けにした上、「お父さんと死んでくれ。」などと言いながら、殺意をもってその左胸部を出刃包丁で一回突き刺したが、B子に加療約二か月間を要する左胸部刺創等の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかった。

第二  被告人は、前記一〇二号室(床面積三六・八五平方メートル)の被告人方に放火して被告人ら共々その財産の全てを灰にしてしまおうと考え、B子を出刃包丁で突き刺した後の前記第一の日時過ぎころ、ベランダから灯油入りのポリタンクを持ち出し、被告人方西側和室六畳間の整理たんす及び東側和室六畳間の押入れなどに灯油約九リットルを散布した上、ライターで整理たんす及び押入れなどに順次点火して火を放ち、その火を鴨居、柱及び天井等に燃え移らせ、よって、そのころ、B子が現在し、かつ、A子が現に住居に使用する前記甲野ハイツ一〇二号室の一部(約二三平方メートル)を焼燬した。

(証拠の標目)《略》

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法二〇三条、一九九条に、判示第二の所為は同法一〇八条にそれぞれ該当するところ、判示各罪の各所定刑中いずれも有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役五年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中二七〇日を右刑に算入し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、判示第一の殺人未遂について中止犯が成立する旨主張するので、この点について判断する。

一  前掲関係各証拠によれば、次のような事実が認められる。

1  被告人は、一撃のもとにB子を殺害する意図で、うつぶせの状態で就寝していたB子を仰向けの状態にし、その左胸部を出刃包丁で一回突き刺している。右出刃包丁は、刃体の長さ約一四・五センチメートル、刃体の最大幅約四・二センチメートル、みねの最大の厚さ約〇・七ミリメートルの鋭利な刃物である。B子は左乳頭内側に幅約五・五センチメートルの刺創を負っているが、この刺創は、第三肋間からやや上方に向かい、左上葉肺を内側約五センチメートル、外側約二センチメートル弱の幅で貫通するという重大なもので、わずか数ミリメートルでもずれていれば心臓や大動脈を傷つけて致命傷になり得るものであった。

2  被告人は、B子の左胸部を出刃包丁で一回突き刺した後、前記甲野ハイツ一〇二号室の整理たんす等に灯油を散布してライターで点火した。その直後、被告人は、右出刃包丁で、自らの左胸部及び喉を突き刺した上、右頚部を切って自殺を図り、B子の足元付近にうつ伏せに倒れた。

3  被告人は、その後しばらく意識を失っていたが、被告人方室内に立ち込めた煙により息苦しくなり、目を覚ました。すると、上半身を起こして壁に寄りかかるようにしていたB子が、被告人に向かって「お父さん、助けて。」と言ったことから、被告人は、急にB子のことがかわいそうになり、煙に巻かれないうちにB子を助け出そうという気持ちになった。

4  そこで、被告人は、B子を玄関から室外に引きずり出し、前記甲野ハイツ前の道路に出た上、付近のC方出入口の門扉を開けてその敷地内までB子を引きずって行ったが、意識を失ってB子と共にその場に倒れ込んだ。

5  被告人らが倒れ込んだ前記C方敷地付近は、夜間の人通りのほとんどない住宅街に位置するが、犯行当日の午前三時五五分ころ、同所付近を偶然通り掛かった通行人が被告人及びB子を発見して一一〇番通報したことから、B子は、都立広尾病院に収容され、緊急手術を受けて一命をとりとめた。

二  そこで、右の認定事実を踏まえて中止犯の成否を検討する。

前記出刃包丁の形状、突き刺した部位及び刺創の程度等に照らすと、被告人が出刃包丁でB子の左胸部を一回突き刺した時点においてB子には死の結果に至る高度の危険性が生じていたと認められ、被告人が一撃のもとにB子を殺害しようと意図していたことをも併せ考慮すると、被告人のB子に対する殺人の実行行為はその時点において終了したと言うべきであり、本件はいわゆる実行未遂の事案である。したがって、被告人の任意かつ自発的な中止行為によって、現実に結果の発生が防止されたと認められなければ中止犯は成立しないことになる。

ところで、被告人がB子を室外に引きずり出したのは、B子が「お父さん、助けて。」と言ったのを聞いてB子のことをかわいそうに思ったことによるものであるから、右行為はいわゆる憐憫の情に基づく任意かつ自発的なものであったと認められる。

しかしながら、被告人は、B子を被告人方からC方敷地内まで運び出してはいるものの、それ以上の行為には及んでいないのであって、当時の時間的、場所的状況に照らすと、被告人の右の程度の行為が結果発生を自ら防止したと同視するに足りる積極的な行為を行った場合であるとまでは言い難く、B子が一命をとりとめたのは、偶然通り掛かった通行人の一一〇番通報により病院に収容されて緊急手術を受けた結果によるものであったことを併せ考慮すると、本件が被告人の中止行為によって現実に結果の発生が防止された事案であるとは認められない。

そうすると、判示第一の殺人未遂について中止犯は成立しないと言うべきであり、弁護人の主張は採用することができない。

(量刑の事情)

一  本件は、被告人が、養女であった被害者を自殺の道連れに殺害しようと考え、出刃包丁で被害者を突き刺した後、被告人方居室に火を放ってその一部を焼燬したが、同女は加療約二か月の傷害を負ったにとどまったという殺人未遂及び現住建造物放火の事案である。

二  まず、殺人未遂の点について見てみるに、犯行の動機は、後に残された被害者が不憫であると考えたというものであるが、自己の一方的な思い込みから年若い被害者の貴重な生命を極めて安易に奪おうとした被告人の行為は、自己中心的で思慮を欠いたものと言わざるを得ず、動機に酌むべきところはない。

犯行の態様は、うつぶせの状態で寝ていた被害者を仰向けにし、鋭利な出刃包丁で、人体の枢要部である左胸部を突き刺したというものであり、極めて危険かつ悪質なものである。

犯行の結果は、被害者に加療期間約二か月間を要する左胸部刺創等という重大な傷害を負わせたものであり、右傷害は十分に致命傷となり得るものであった上、左乳頭内側に形成された傷痕は将来にわたり被害者にいやし難い苦痛を与えるものと思われる。当時中学校二年生であった被害者が就寝中に突然義父から出刃包丁で刺されたことによる恐怖感や精神的打撃の大きさをも併せ考えると、その結果は極めて重大である。

三  次に、現住建造物放火の点について見てみるに、犯行の動機は、被害者を突き刺した後、自殺するに当たり、被告人ら共々その財産も全て灰にしてしまおうと考えたというものであり、極めて身勝手かつ自己中心的なものであって、動機に何ら酌量の余地はない。

犯行の態様は、被告人方居室に灯油を散布して火を放ったというものであり、媒介物である灯油の燃焼性が強いこと、犯行時刻が午前三時三〇分ころで発見が遅れる可能性も大きかったこと、同室が二階から四階までに合計一〇世帯が居住している共同住宅の一室であること、犯行現場が一般住宅の立ち並ぶ住宅街であったことなどに照らすと、極めて危険かつ悪質な犯行と言える。

犯行の結果は、当時の被告人方居室内の約二三平方メートルを焼燬したほか、同室内の他の部分を消火活動等により到底使用に耐えない状態にしたというものであり、修復費用として約五五六万円が見積もられているのであって、その結果は重大である。加えて、共同住宅の所有者が火災保険に加入しているとはいうものの、被告人は共同住宅の所有者に対して何ら被害弁償をしておらず、今後もその見込みは乏しい。

以上によれば、被告人の刑事責任は重大であると言うべきである。

四  しかしながら、他方、幸いにして、殺人の点は未遂にとどまり、放火の点についても隣室や隣家に格別の被害が及んだ形跡がないこと、被告人は、本件犯行当時、心神耗弱の程度には至っていないものの、精神分裂病の軽度欠陥状態に相当する人格状態を背景として深刻な葛藤が形成されていたのであって、本件犯行は右葛藤を背景とした偶発的、衝動的なものであったと言えること、金銭面にずさんであり、男性関係もあって家出を繰り返していた被告人の妻の生活態度にもかなりの問題があったようにうかがわれ、妻の行状を思い悩んで将来を悲観し、絶望的な心理状態に追い込まれた本件犯行当時の被告人の心情には同情すべき余地がないわけではないこと、被告人は、被害者を出刃包丁で刺し、火を放った後、憐憫の情を抱いて被害者を室外へ運び出していること、殺人未遂の被害者が被告人に対して厳重処罰までは欲していないこと、被告人には道路交通法違反の罪(無免許運転)等により罰金刑に処せられた以外に前科がないこと、被告人はこれまで左官としてまじめに稼働しつつ養子である被害者を養育してきたこと、被告人は、本件各犯行を素直に認め、真摯な反省の態度を示していること、情状証人として出廷した実兄が被告人の更生を支援する旨述べていること、被告人の勤務先の社長も再雇用したい旨を述べているようであることなど被告人のために酌むべき事情も認められる。

五  そこで、以上の諸事情を総合考慮すると、被告人を主文の刑に処するのが相当である。

よって、主文のとおり判決する。

(求刑 懲役七年、出刃包丁没収)

(裁判長裁判官 田中康郎 裁判官 田村 真 裁判官 鈴木謙也)

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